もうあんな思いはしたくない。ふたりして何やってたんだろう、バカだよなあ。

あんなのは恋じゃなかった。それでも


筆箱に入れておいたはずの消しゴムがないことに、笠井は授業中気付いた。自分が入れ忘れたのかもしれない。しかし疑いは残った。朝から藤代の機嫌は悪かったのだ。
休み時間に藤代の机まで赴く。次の時間は小テストがあるから消しゴムがないと不便だ。赴くと言っても窓際の後から二番目の藤代の席、そこまでは笠井の席から左後斜めに数歩。
「消しゴム返せよ」
「俺を疑うの?」
「当然だろ」
決め付けられたと藤代は傷付いた風な顔をした。それでも表情を崩さない笠井を睨み、藤代は乱暴に席を立ち笠井の机の上に出したままの筆箱を掴んだ。そして窓際まで戻ってきて目の前で、ゴミをゴミ箱に放り込むようなしぐさでぽいと笠井の筆箱を窓から外に放り出した。怒りより何より誰かに当たったらどうするんだ、という冷えた緊張がさっと走った。ぐちゃんというかばちゃんというか、そういう音が一階下から聞こえて着地を知る。笠井にも感覚が戻ってきて「取りに行け」と藤代を怒鳴ろうとした。でも行くわけがない。笠井は何も言わずに教室を出た。

藤代が消しゴムをどこかへやったと決めてかかったのには根拠があった。藤代は勝手に笠井のものを捨てたり隠したりする。靴下が片方ないとか、鍵につけておいたキーホルダーがなくなっているとかそんな程度の、気付かないかもしれないいたずらのような。でもこれは笠井に対する嫌悪の表現だった。いつかそれを笠井は知った。くたびれた靴下やよくわからないキャラクターのキーホルダー、別になかったらなかったでいいかもしれないもの達。なくなったら諦めるしかない。藤代は絶対返さない。ひょっとすると隠したり捨てたりしたことを藤代は忘れているのかもしれない。反応を望んでいるわけではない。藤代はただ笠井が気に食わないのだ。どうしてそんなことをする、と憤りはしても笠井は藤代を責められなかった。人に対するほとんどの行動が明るく鷹揚で、気遣いもする藤代の、時々のぞくこのような横着な感情表現を笠井はこっそり喜んでもいた。笠井の持っていたものを捨てずにいられないほどの思いが藤代にあるのだと、それが独り善がりでも。表情ひとつ変えず藤代はどこかのゴミ箱に捨ててくるのだろう。自分をどう考えているのかわからない藤代と真正面から向かうよりは、こうやって被害を多少なりともうけるほうが清算された気になる。何が原因か定かではなくても、笠井は毎日少しずつ藤代を傷つけている気がしていた。捨てられたことに気付かない振りをすることがそれを助長する気もしていたがどうしようもないと思っていた。

結構な高さから落された布製の筆箱は、チャックが開いていたので中の筆記用具が飛び出てまんべんなくグラウンドの砂に塗れていた。頭痛がする。突然グラウンドに落ちてきた筆箱と、それを拾いに来た自分に注がれる近くの教室の一年生達の視線を逃れようとさっさと拾い上げて、笠井はまたすぐに教室を目指した。藤代は涼しい表情で窓枠に背を預けていた。笠井は砂塗れの筆箱を投げつけてやろうかと思っていた。だがそれはまばらでも人のいる教室では出来なくて、隅のゴミ箱まで歩いていって、ざらつく自分の筆箱とその中身全てを勢い任せに捨てた。その直後誤解だったのかもしれない、消しゴムは本当にまだ寮の自分の机の上にあるのかもしれないという思いがやってきた。だとしたら何をやってるんだろう、俺は。
笠井が振り返ってすぐ、大袈裟で綺麗なフォームで藤代が何か投げてよこす。消しゴム。ついさっき捨てた筆箱に今朝までずっと入っていた笠井のものだ。
呆れて言葉が出ない笠井を藤代はおもしろそうに眺めていた。



休みの日は友人達と大勢で出かけることが多かった。その日もそうで、毎度同じ様に買い物をして、ゲームセンターに入って、・・・そろそろ笠井は退屈だと思い始めていた。アーケードゲームに興じる輪に混じってはいるものの。こっそりため息をついた、そのとたんに上着の裾が引っ張られる。手の主は藤代。目が合った後よくする表情で藤代が笑う。それでいつも目が逸らせなくなって、笠井が一瞬呆ける笑い方だった。そのまま強引に腕を引かれて輪から外れる。
「おまえゲームは、」
「飽きた」
ふたりでさっき来た埃っぽい道路を歩いて帰ることにした。高架から排気ガスが降ってくる駅までの裏通りだが人通りは多い。狭い歩道で前からやってくる人達を避けながら歩いているといつのまにかお互いの距離が開き、藤代は笠井のはるか後方を歩いている。一度だけ振り返った後、もう笠井は振り返らずに黙々と歩いた。藤代は歩く速度を上げようとしなかったし、笠井も減速しなかった。駅の改札の切符売り場で追いついても会話がない。電車は混雑し始める時間帯だった。ドア付近にふたりぼんやりとして立っていたら、後から乗り込んだ中年女性ふたりとサラリーマンで離れてしまった。
同じ感覚で状況をつまらないと思った。それは本当だった。なのにふたりになればなるほど不機嫌になってしまう。
「帰ってきても暇だったなあ」
部屋でやっと一言、何かしみじみと藤代が言う。それは自分といても仕方ない、ということか。笠井は言外で責められているような気になった。そんなつもりはなかったのに何かが笠井の背を押して、藤代を押し倒した。拒まない藤代は、しかし目を瞑っている。わざと目を合わせない。笠井が機嫌を取るように名前を呼んでも、探るように腰を掴んでも。服の裾をたくし上げる一瞬だけ目があった。一瞬あってすぐ何か弾かれたように逸れていく。口付ける瞬間も目を開けて笠井の頭上、斜め上を頑固に見続けていた。バカだよなあ、笠井は自分に呟く。
生ぬるい液体が入ってきて部屋を満たしていく。それはみるみるうちに床から口元までの高さに達して自分達は窒息する。

次の休みはふたりで買い物に行った。それぞれが買いたい物が違う建物の店にしかないので、時間もないしふたり別々に買い物をして落ち合うことにすればいい、と笠井は提案した。藤代も同意する。
「じゃあそこのコンビニに待ち合わせな。3時頃には行くから」
「うん」
そうやって別れて出発しようとする直前、藤代は笠井に向き直って「おまえ待ち合わせたって来ないつもりだろ」と言った。断定。笠井は絶句した。

「・・・なんでわかんの」

今、意外に冷静な声で答えた、と笠井は他人事のように思った。笠井の返事に藤代は意地の悪い(と笠井は思った)笑い方をしてそれからさっさと歩いて行ってしまった。笠井は藤代の断定的な予言どおり待ち合わせた場所に行かなかった。一人で歩きながらずっと笠井は混乱していた。もちろん、本当はそんなつもりではなく、ちゃんと3時には間に合うように行くつもりだった。何言ってるんだちゃんと行くよ、と否定すれば冗談になったのに。それはきっと藤代の思い通り。藤代は本気で自分を疑っていたわけではないだろう、と笠井はなんとなく思った。しかしその根拠はなんだ。それがちゃんと言葉にならない。ただ悲しいと思った。自分は相手の望む時間をあげられないと知って、それはお互いに?、一緒に居てもしょうがない、することは、それだけだ、と、そういう、
そんなの、じゃあもう、バカみたいでも手とかつないで歩けばよかった!、じゃあ、もう、









せめてそうじゃないことをそうじゃないと、正しい時になぜ言えなかったのだろう。しかし正しい時とはいつだったのだろうか。わかってほしいと自分は願っていたのだと、それがわかったのが全部、過ぎてからなのだった。幼稚に固執してされて、手応えのなさがやりきれなくて、自分を責めることも馬鹿らしくて、並ぶ距離にも意味があって、離れて、くっついて、苦しいのに後に何も残らない。




でも
(それでも)、空気に溶けそうな感覚を知った。


砂塗れの筆箱を持って階段を上がっている時、本当は怒ってなどいなかった。拗ねた顔がもっと見たいと思っていた。ふりでもよかった。歩調を落して歩く藤代が考えていたことを知りたいと思っていた。俯いたり目を瞑ったりする意地の張り方が好きだった。
ふいに、自分のどこからやってくるのかわからない感情で確かに、相手のせいで目の前の風景が彩度を上げる。その一瞬は言葉にしようとすると消える。だから言えなかったのに。しかしそんなのは言い訳にもならない。言い訳する必要ももうない。もうあんな苦しいのだかうれしいのだかわけのわからない思いはしない。




違う。

もうあんな思いは出来ない。








 

 

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